きょうも書籍のご紹介:”Wilhelm Heckel Six Generations Dedicated to Music” 第一章(森田)

スタッフコラム

皆さま、こんにちは!

さて、本日のスタッフコラムでは前回、僕がスタッフコラムを担当した際にご紹介した書籍「Wilhelm Heckel Six Generations Dedicated to Music」の第二弾をお送りしたいと思います(前回のコラムはコチラ)。

前回のコラムをお読みいただいた皆様から、「面白かった」、「実際に本を読んでみたいと思いました!」…など、感想も頂きありがとうございます!

Cover

さて、前回に引き続き今回は本書の第一章の内容を基に、ヘッケルの創業者でもある”Johann Adam Heckel”氏の生涯、またヘッケル社の設立にまつわるエピソードをご紹介させていただきます。

ヨハン・アダム・ヘッケル(Johann Adam Heckel、1812年7月14日 – 1877年4月13日)

1812年、Johann Adam Heckelはザクソン州Vogtland、Adorfの地生まれました。具体的な年齢は述べられていませんが、早い年齢の時期から楽器職人の道を志し、当時この地で楽器の名工であったLotz氏により、楽器工房を紹介され職人として修行を始めました。その後、職人としての見習い期間を終えたJohann Adamは旅に出て、Mainzという地を訪れます。この土地でJohann Adamの叔父が働いていたB.Schott氏が営む楽器工房で、職人としての仕事を得ることになります。そして、このSchott氏の工房でJohann AdamはCarl Almenrader氏という音楽家と出会い転機を迎えます。

このCarl Almenrader氏について、その音楽家としての人生についても非常に面白い話が紹介されています。彼は13歳の時、誕生日プレゼントに古びたバスーンを貰い、独学で楽器を演奏を始めました。この時までに、彼は既にピアノ、フルート、フレンチホルンといった楽器の奏法を一通り習得しており、新しい楽器について学ぶことには慣れていました。それから程なくして、彼は父親の主催する音楽会でバスーン奏者として中心的な役割を担うようになり、演奏活動の稼ぎから新しい楽器を手にし演奏家としての活動の幅を広げていき、以来、演奏家、指揮者…様々なキャリアを歩んでいきます。

そんな中、彼は自身が周囲で目にする楽器の多くが、自身の求める性能や質に達していないと感じるようになりました。そこで彼は、自身で工房を設立しフルートやクラリネットなどの楽器を高い品質で作ろう決心、楽器製作に携わるようになります。しかし、楽器製作の仕事は専門性やノウハウの要求が非常に高く、また体力的にも無理のかかるものであり、一度は楽器製作の道を断念します。しかし後になって、彼はB.Schott氏と出会い、新しいアイデアとコンセプトに基づくバスーンの作成を目指すようになりました。

Almenrader氏は、Johann Adam Heckelに出会い、早い段階からJohann Adamの職人としての資質、音に対する感覚の良さ、創造性といった才能に気がついていました。そして、1831年に二人で共同で”J.A Heckel and Carl Almenrader Bassoon Factory”という社名で会社を設立します。設立時、Almenrader氏はJohann Adamに一度、故郷のAdorfの地に戻り、彼の所有する道具や旋盤を会社を設立するBiebrichの地に持ってくるようにを説得をしました。Johann Adamはこの言いつけに従い、自身が使っていた旋盤を馬車、船を乗り継いで故郷の地から、Biebrichまで運びました。ちなみに、この旋盤は何度かの改修を経て、その時代の遺産としてHeckel家が保有しているそうです!

また、この時の帰郷が、Johann Adamが故郷の地を踏む最後の機会となったそうです。家族仲は良く、絶えず互いに連絡は取り続けるも、故郷の地に帰ることはありませんでした。

事業を始めた、最初に構えた楽器工房は手狭な借家だったため、楽器製作に良い環境ではありませんでした。1837年、Johann AdamはLissette Steinhauerという女性と恋に落ち結婚します。この結婚をきっかけに、彼はBiebrichの地区の一つであるMosbachという場所に移り住みました。この場所に、妻の親族が広い土地を持っていたため、そこに広い工房を建設しました。ところが、この工房も事業の拡大により、すぐに手狭になってしまい、1840年にはこの場所から3軒ほど離れた場所に、新しい建物の建設を始め、1845年、Kasernen通りに新しく工房を設立します。この通りは後に、Friedrich通りと名前を変え、最終的にはStettiner通りという名前になり、今日もHeckel家が住んでいる場所でいる場所になっているそうです。

この間の1843年に、一緒に会社を設立したCarl Almenrader氏がこの世を去ります。実は1838年の時点でAlmenrader氏は既に会社を辞めていました。
それ以来はJohann Adam Heckel自身が会社のオーナーとなり、以来、制作される楽器を”Almenrader-Bassonn”から”Heckel Bassoonn”と呼ぶようになりました。

このような経緯から、ヘッケルのファゴットの歴史はスタートしました。本書を読み進めていると、人と人との出会いがキッカケになって物事が始まる雰囲気や当時の時代の風景や空気感が感じられ、楽器の歩んできた歴史に対する理解が深まるように思います…また、次回も引き続きこの本の内容を少しづつですが皆様にご紹介していきたいと思います!

この季節になると、花粉症がつらい方もいらっしゃるはず…寒暖差も激しい日が続きますね。
季節の変わり目、体調などお気をつけてお過ごしくださいませ!

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